誰が漱石をアンドロイドとして蘇らせる権利をもつのか? アンドロイド基本原則とは? 二松學舍大学シンポジウム
先日、書籍「アンドロイド基本原則」が届きました。
この本を手に取ってページをめくると、昨年夏に行われたシンポジウム「誰が漱石を甦らせる権利をもつのか?―偉人アンドロイド基本原則を考える」での、あの熱かった討論の記憶が鮮やかに蘇ってきました。
文豪、夏目漱石がアンドロイドとして人々の前に蘇り、教壇や舞台で動き、話すようになりました。そしてこの時を境に、今まで誰も考えなかったような問題が提起されることになります。
誰が故人のアンドロイドを蘇らせる権利を持っているのか。
蘇ったアンドロイドはどのような権利を持つべきなのか。
漱石アンドロイドをはじめとして、人々が偉人として記憶している人を復元したロボットをここでは「偉人アンドロイド」と呼びます。多くの人は、はじめは偉人アンドロイドに違和感を感じるかもしれません。しかし、その動きに注視し、言論に耳を傾けるうちに、確かにそこに存在する偉人アンドロイドにやがては生命感を感じたり、場合によっては私達が知っている故人の偉業や実績を重ね合わせるのです。
提起された問題とは、蘇らせる権利だけではありません。
アンドロイドの制作者はそこに存在するアンドロイドに何を語らせてもいいのだろうか?
故人のダークな一面やプライバシーで覆われていた趣向などをアンドロイドで表現することで暴いてもいいのだろうか?
全くの創作、パロディとして、あたかも偉人がそれをしているかのように演じさせてもいいものだろうか?
と、次々に生まれてきます。
偉人の身体と人格をアンドロイドとして甦らせる権利があるのか?
「誰が漱石を蘇らせる権利をもつのか?」
そう題したシンポジウムが開かれたのは2018年8月26日のことです。場所は夏目漱石をリアルなアンドロイドとして蘇らせた二松學舍大学です。二松学舎大学は創立140周年を記念して、漱石の孫にあたる夏目房之介氏、大阪大学大学院石黒研究室、朝日新聞社の協力のもと、同大学に一時期通っていた夏目漱石氏のアンドロイドを制作したのです。
シンポジウムの冒頭、劇作家であり演出家の平田オリザ氏、作・演出の演劇「手紙」が上演されました(ロボティスト:力石武信 東京藝術大学/大阪大学 石黒研究室)。舞台は漱石アンドロイドが夏目漱石を、女優の井上みなみ氏が正岡子規をそれぞれ演じ、漱石と子規がやりとりした手紙を通して物語は進む見応えのあるものでした。その様子は別の記事で既にお伝えしています。
漱石アンドロイド誕生によって生まれた気づき
シンポジウムの焦点は、大きく分けて3つあったと思います。ひとつは人間そっくりのアンドロイドが存在する意味そのものを考えること、そしてシンポジウムのタイトルの通り、誰が故人のアンドロイドを蘇らせる権利を持ち、蘇ったアンドロイドはどのような権利を持つのか、という法律や倫理面での課題を考えること、そして、アンドロイドという存在によって従来の個人としての人間観や時間の定義にどのような影響を与えるのかを考えることです。
それらはすべて、そっくりなアンドロイドとして夏目漱石という故人を蘇らせようという試みがあったからこそ生まれた気づきでした。
文学、時間、人間を見直すことを目指す(山口教授)
漱石アンドロイドの存在は、夏目漱石がロボット(アンドロイド)で現代に復元したら面白い、ということに留まりません。従来は当たり前だったことや、不可逆的だと考えられてきたことを見直すこと、アンドロイドの登場によって従来は考えもしなかった権利や法律が必要となっているのではないか、という疑問を生み出しました。
二松學舍大学の教授、山口直孝氏は、当日のシンポジウムで「漱石アンドロイドプロジェクトが目指すもの」として、「文学」とは何かを考えること、「時間」とは何かを考えること、そして「人間」とは何かを考えること、の3つをあげました。
今までの書記や小説を中心とした「文学」観を見直すこと、過去・現在・未来へと続く、一方向として捉えてきた「時間」観を見直すこと、そして、生きて死ぬことによって限界づけられている個人としての「人間」観を見直すことを示しています。
再生ロボットを作るのは自由か(福井弁護士)
芸術や文化法、著作権法などを専門分野とし、テレビや雑誌などでも活躍している弁護士の福井健索氏は、偉人アンドロイドを「特定の人物の外観や記憶、能力を移植された再生ロボット」と定義した上で、このシンポジウムの論点を次のように語ります。
・再生ロボットに肖像権はあるのか
・再生ロボットの実演・制作に著作権等はうまれるのか、その権利は誰がもつのか
・再生ロボットによる事故や違法行為の責任は誰が負うのか
もちろん、今までほとんど論議されたことがなかったものばかり。福井氏は現行の著作権や著作隣接権、肖像権など、それぞれの法律に触れたり照らし合わせながら、想定される権利や課題などをわかりやすく解説しました。
人間はアンドロイドになることで尊い存在になる(石黒教授)
シンポジウムとしてのクライマックス「偉人アンドロイド基本原則はどうあるべきか」というクロストークセッションは見応えがありました。
ここまでのセッションでは、開発・制作者として立場、創作・表現者としての立場、法曹界としての立場など、さまざまな視点から偉人アンドロイドの基本原則が提起されてきましたが、親族の立場として、また評論家としても知られる夏目房之介氏がクロストークに加わったことで、更にダイナミックに意見がぶつかり、討論に拍車がかかることになりました。
アンドロイド化の権利や許諾について平田オリザ氏は「表現者としては法律ありきではなく、できるだけ自由にやらせて欲しい」「故人が登場する作品を作るときは自分なりに規範を設けていて、遺族が隣にいても殴られないかどうかを考え、ギリギリ殴られても仕方ないという”覚悟”でやっている。刺されそうならば、それは一線を超えている(笑)」と語り、場内が笑いに包まれました。
石黒教授がこれを受けて「アーティストは(表現のためには)法律を守らないって言っている」と発言すると場内は再び笑いが起こり、平田氏も「それは法律がない場合の話。いやできるだけ法律はない方がいいとは思う」と繋ぎました。また平田氏は劇作家の立場として「将来、自分の作品であれば幅広く上演して欲しい。現行の著作権のように没後50年、70年も保護期間が継続するとたくさんの許諾が必要になり、おいそれとは上演されなくなってしまう。保護期間は例えば自分の子どもが成人するまで20年程度に限り、遺族が著作権料をもらうくらいが望ましいのではないか」と語りました。
石黒教授は「法律は時に表現の自由を縛り、法律のないところでしか面白いものや新しい産業は生まれない、という側面がある。一方でアンドロイド原則がないと今後はアンドロイド化が難しくなるおそれもある。”うちはロボット三原則を守っています”と言えば許される感じがする(笑)、それを聞いた人はなんだかよく解らないけど、それなら安心だ、と納得する思う。そういう意味でも原則が欲しい」としました。
夏目房之介氏は「法律は常に時代遅れ、時代遅れのものを今にあわせなければならない」と語りました。福井弁護士も「たしかに法律は常に時代遅れであり、法律と現実とを埋めるのは平田さんが言ったように表現者の”覚悟”」とした上で、「アンドロイドを作る上でこれからは、やはり何かの原則は必要であり、それは法的な禁止ルールを設けるのではなく、自由のための準則、ガイドラインぐらいはみんなで持っておこう、という段階ではないか」と締めくくりました。
人間はアンドロイドになることで尊い存在になる(石黒教授)
石黒氏は「偉人とは一個人としての存在ではなく、社会で共有されるポジティブな側面の人格を示すもの」であり、人々の想像で作り上げられる側面も持っているとして、人の生きる支えや目的になったり、時として歴史の象徴になるものであると主張します。その意味では偉人アンドロイドは動いて”話す銅像”であり、「人間はアンドロイドになることでより進化し、尊い存在になる」と提起しました。
更に「例えば、社会的な人格を崩さない限り、誰のアンドロイドでも自由に作って良いというのはどうか。人間は個人的側面と社会的側面を持っていて、それを分離して社会的側面だけをアンドロイド化したものは、それはもう故人ではない。優れた社会的な人格をアンドロイドとして育てていけば、そのうち人権を持つようになり、優れたアンドロイドだけの世界が作られる」と語ると、トーク参加者を含めて一瞬の沈黙の後、場内がドッとどよめく、そんなひと幕もありました。
重要なのは尊厳を守ることか、それとも多義性か
二松學舍大学文学部の谷島寛太教授も偉人アンドロイドの尊厳を守ることが重要とし、アンデンティティを守り、パブリックな存在として扱う必要性を主張しました。
一方で夏目房之介氏は、アンドロイドが動く銅像として偉人を理想化したり、いわば神格化することに異論を唱えました。それは「多義性」を損なうことになる、という意見です。房之介氏はパロディとしての存在を容認し、むしろパロディとしての利用を尊重する考えです。パロディやフィクション創作であることを明示すれば、偉人アンドロイドのイメージに反することでも演じさせることを許容すべき、世の中はやっぱり面白い方がいい、という旨の意見でした。
夏目氏が一般の親族の代表としてそこに座って発言していたとすれば、きっと「祖父の尊厳や権利を守りたい」「イメージを損ねるようなことはやめろ」と主張していたかもしれませんし、推測ですがおそらくそのように主張する親族は実際にはきっと多いことでしょう。しかし、房之介氏は漫画批評家であり、漫画家やエッセイストといった表現者の立場でもあります。そして、なにより夏目漱石という故人自身が「ただの夏目なにがしで暮らしたい」という意思表示していたことから、ひとりの人間として夏目漱石を見て、表現して欲しいという思いがあるのかもしれません。
あなたはどう考えますか?
守るための議論だけでなく、攻めるための意見が交わされた今回のシンポジウムはとても勉強になりました。シンポジウムでは偉人アンドロイドを中心に議論が行われましたが、近い将来、アンドロイドの存在はもっと身近なものになるかもしれません。今はアンドロイドの制作には膨大な金額がかかりますが、やがては安くなっていくでしょう。
もしも自分の大切な子どもが不慮の事故で亡くなったとしたら「アンドロイドとしてでも蘇らせたい」という思いにかられるかもしれませんし、大好きだった父親を家族みんながお金を出し合ってアンドロイドで蘇らせる、ということがあり得るかもしれません。
また、この議論にはアンドロイドという身体の存在が必ずしも必要ではないかもしれません。音声合成技術は進歩し、既に自分そっくりの声でコンピュータが話すことができます。今では自分の声をスマートフォンのアプリで簡単に合成できるようにもなりました。自分がアプリの中で生き続ける、という時代は意外とすぐそこに来ているのかもしれないのです。もしかしたら明日にでも、悪用ではないにしろ誰かが自分の声を使って代わりに何かを喋らせているかもしれません。
Pepperのような人型ロボットに、亡くなった父親の知識や癖とリンクさせたり、スピーカーから聞こえる父親の音声合成した発話を聞いて、故人を感じるかどうか、という試みが行われた例もあります。
アンドロイドとして蘇らせる権利を誰が持つのか?
自分をアンドロイドとして蘇らせない権利は必要なのか?
アンドロイドが生み出したものは誰が権利や責任を持つのか?
それが社会的な課題になるのは、きっとそう遠い先の話ではないでしょう。
※ 2018年8月に行われたシンポジウム「誰が漱石を甦らせる権利をもつのか?―偉人アンドロイド基本原則を考える」をもとに2019年2月に書き起こした記事です。
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石黒浩研究室 関連記事 (ロボスタ)
漱石アンドロイド 特設サイト (二松學舍大学)
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神崎 洋治神崎洋治(こうざきようじ) TRISEC International,Inc.代表 「Pepperの衝撃! パーソナルロボットが変える社会とビジネス」(日経BP社)や「人工知能がよ~くわかる本」(秀和システム)の著者。 デジタルカメラ、ロボット、AI、インターネット、セキュリティなどに詳しいテクニカルライター兼コンサルタント。教員免許所有。PC周辺機器メーカーで商品企画、広告、販促、イベント等の責任者を担当。インターネット黎明期に独立してシリコンバレーに渡米。アスキー特派員として海外のベンチャー企業や新製品、各種イベントを取材。日経パソコンや日経ベストPC、月刊アスキー等で連載を執筆したほか、新聞等にも数多く寄稿。IT関連の著書多数(アマゾンの著者ページ)。