誰も解読できない「量子暗号通信」を金融分野で実証実験、秘匿性と低遅延で実用化に手応え 野村HD/野村證券/NICT/東芝/NEC

いかなる計算力を持った第三者でも暗号が解読できないという高い理論的な安全性を持つ暗号方式「OTP」は、伝送データと同じ量の暗号鍵が必要となることから、株取引など膨大なデータ量が予想される分野での活用は、鍵が枯渇する危険性に懸念の声があった。

野村ホールディングス、野村證券、情報通信研究機構(NICT)、東芝、日本電気は、この課題に取り組む実証実験を実施し、高い秘匿性と低遅延性能を確認し、実用化へ手ごたえを得た。


量子暗号技術を株取引に活用実験

上記5者は、今後の量子暗号技術の社会実装に向けて、高速大容量かつ低遅延なデータ伝送が厳格に求められる株式取引業務をユースケースとした量子暗号技術の有効性と実用性に関する共同検証を2020年12月に開始し、実際の株式トレーディング業務において標準的に採用されているメッセージ伝送フォーマット(FIXフォーマット)に準拠したデータを大量に高秘匿伝送する際の、低遅延性及び大容量データ伝送に対する耐性について国内初の検証を行った。

その結果、今回の想定ユースケースにおいては次の2点を確認することができたという。

1.量子暗号通信を適用しても従来のシステムと比較して遜色のない通信速度が維持できる
2.大量の株式発注が発生しても暗号鍵を枯渇させることなく高秘匿・高速暗号通信が実現できる


この成功により、今後、金融以外の分野も含めた量子暗号技術の社会実装の加速が期待されるとしている。
なお、この共同検証は、内閣府が主導する戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)「光・量子を活用したSociety 5.0実現化技術」の一環として実施した。


金融機関に対するサイバー攻撃の脅威に対抗

金融機関に対するサイバー攻撃の脅威が増え、金融システムへの影響が懸念されていることが背景にあるという。特に近年、金融分野においては、デジタライゼーションの加速的な進展などにより、システムを取り巻く環境が大きく変わってきており、そのセキュリティ対策についてもより一層の強化が求められている。
一方、株式取引においては、株価や気配情報、出来高などに応じて、コンピュータシステムが自動的に株式売買注文のタイミングや数量を決めて注文を繰り返すという「アルゴリズム取引」が広く普及しており、日々、膨大な取引処理が行われている。
国内証券取引所における1日の株式などの取引高は3兆円以上にものぼり、こうした株式取引の処理においては、膨大な量の取引データ伝送に耐えられる通信方式が必要とされる。また、株式取引においては、取引処理の遅延が機会損失の発生にも繋がることから、証券取引所では注文応答時間がミリ秒未満の処理性能を持つ通信ネットワーク基盤を提供している。
社会通信インフラは5G・Beyond5Gにも見られるように、高速・大容量化し、低遅延化が求められているが、株式取引システムにおいても、大容量データ伝送、低遅延通信が高い水準で求められている。


共同検証の概要と各社の役割

今回、野村HD、野村證券、NICT、東芝、NECの5者は共同で、「理論上いかなる計算能力を持つ第三者(盗聴者)でも解読できないことが保証されている唯一の暗号通信方式」である量子暗号通信の金融分野への適用可能性について、国内で初めての検証を実施した。

図1に本共同検証のシステムの概要を示す。光の粒である光子に鍵情報をのせ暗号鍵共有を行う量子鍵配送(Quantum Key Distribution:QKD)装置(注)からの鍵を使った暗号化装置を用いて、低遅延性と大容量耐性の検証を行なった。

図1 本共同検証のシステムの概要

検証には、NICTが2010年にQKD装置を導入し構築した試験用通信ネットワーク環境「Tokyo QKD Network」(注)上に、投資家と証券会社を模した金融取引の模擬環境を整備し、実際の株式注文において標準的に用いられるメッセージング・データのフォーマット(FIXプロトコル)に合わせた模擬データを生成するアプリケーションを野村HD・野村證券で開発した。

またNICTでは、従来、社会実装を見据え、QKDに組み合わせるデータ暗号化方式の検証を行ってきた。今回、伝送するメッセージの暗号化には、ワンタイムパッド(One Time Pad:OTP)(注)方式、Advanced Encryption Standard(AES)方式という2種類の暗号化方式を採用した。
OTPは、いかなる計算力を持った第三者に対しても暗号が解読されないという高い安全性(情報理論的安全性)を持つ暗号方式である一方で、伝送データと同じ量の暗号鍵が必要となることから、暗号鍵消費量が多くなる傾向があり、その結果、鍵が枯渇する危険があるという課題がある。今回は鍵の枯渇に対する備えとしてAESを併用した。
なお、実装についてはGbpsレベルの高スループットを可能とするために、NICTが新たに開発した高速OTP装置(注)を検証では採用した。

AESは、OTPと異なり情報理論的安全性は有しておらず、暗号解読を行うために天文学的な計算を必要とするという計算論的な複雑さに依存する安全性(計算量的安全性)を持つ暗号化方式。今回のユースケースにおいては、QKDにより生成した暗号鍵を短時間で更新することにより、AES方式であっても十分なセキュリティ強度を持つと考え、OTPの代替方式として、256ビットの鍵長を利用するAES(AES256)を選択した。
AES256の実装にはソフトウェアベースでの実装方式(SW-AES)(注)と、より低遅延性に優れたNECが開発した回線暗号装置(COMCIPHER-Q)(注)を用いた方式の2種類を採用した。

上記の高速OTP、SW-AES、COMCIPHER-Qという計3種類の方式による暗号化方式を用いて、それぞれの通信性能の測定・比較検証を行なった。
検証に際しては、東芝が開発した高速QKD装置及びNECが開発したQKD装置で交換した鍵をもとに実際の株式トレーディング業務に沿ったテストケースを設定し、大容量データ伝送時に複数種類の異なるデータ暗号化方式の応答時間を計測することを通じて、QKDならびに各暗号化方式の実用性を検証した。

具体的には、証券会社の株式業務で1日に伝送される取引メッセージ(FIXメッセージ)のデータ総容量、及びその数十倍のデータ伝送量をそれぞれ想定した場合に計測される応答時間について、上記の高速OTP、SW-AES、COMCIPHER-Qの計3種類の暗号化方式の違いによる影響についてを検証。
こうした株式取引における具体的なテストケースに沿って大容量データ伝送時のQKD並びにデータ暗号化方式の実用性を比較検証したことにより、今後、金融以外の分野も含めて量子暗号技術を多方面での社会実装に繋げていく上で、重大な示唆が得られたと考えている、とした。


共同検証の結果

共同検証の実験結果は、図1の3種類の方式(高速OTP、SW-AES、COMCIPHER-Q)のいずれかの暗号化方式を用いることで、前述のとおり

(1)量子暗号通信を適用しても従来のシステムと比較して遜色のない通信速度が維持できること
(2)大量の株式取引が発生しても暗号鍵を枯渇させることなく高秘匿・高速暗号通信が実現できること

が確認できた。

今回の検証ではQKD装置からの鍵の枯渇はなかったが、QKD装置からの鍵の枯渇が懸念される場合には、鍵消費量の少ない方式に切り替えることで、ビジネスの継続性を維持することが可能だとしている。

5者は共同リリースで「これらの結果は、暗号化レベルや暗号通信速度などについて、将来的に様々な顧客ニーズに対応できるシステム構成について、柔軟に提案可能となることを示唆しています。さらに、検証を重ね、再現性及び信頼性のあるデータを蓄積していきます」とコメントしている。


今後の展望

今回は、「(1)低遅延通信検証」及び「(2)大容量データ通信の検証」に成功した。
引き続き並行して「(3)連続稼働検証として量子暗号システムを長時間(1週間程度)連続稼働させてもシステム障害が生じないか(ロングランテスト)」、並びに「システム障害時にシステム切り替えが遅延なく行われるか(ストレステスト)」についても検証中であり、2021年度末までに検証を行う予定だとしている。

5者は本共同検証の成果を踏まえ、今後、量子暗号技術の着実な社会実装に向けて、量子暗号技術・量子セキュアクラウドシステムの活用策、並びに適切な導入プランの策定などに取り組む。

データの大容量性、通信の低遅延性、システムの連続稼働性について、特に厳しい水準が求められる金融分野において量子暗号システムの実用性を証明することができれば、金融以外の業界にも転用できる可能性が高くなると考えられる。
今後は今回の検証を踏まえて量子暗号技術の社会実装に更なる展望を開くべく取り組んでいく。


【用語解説】

(注)の解説

FIX
FIX(Financial Information eXchange:金融情報交換)プロトコルは、財務データや取引に関連するメッセージを電子的にやり取りするための一連のメッセージ仕様である。世界中の銀行やブローカー、取引所、機関投資家、情報技術(IT)プロバイダの協力によって開発され、メッセージ仕様の標準として世界的に認められている。

戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)
内閣府総合科学技術・イノベーション会議が司令塔機能を発揮して、府省の枠や旧来の分野を超えたマネジメントにより、科学技術イノベーション実現のために創設した国家プロジェクト。https://www8.cao.go.jp/cstp/gaiyo/sip/

量子暗号通信
光子を使って暗号鍵共有を行う量子鍵配送(Quantum Key Distribution:QKD)装置、及びその暗号鍵を使い、ワンタイムパッド(One Time Pad:OTP)方式により情報の暗号化・復号を行う暗号技術のこと。量子コンピュータを含むあらゆる計算機で原理的に解読できない極めて安全な通信を実現できる。

量子鍵配送装置
量子鍵配送(QKD)は、通信を行う二者間でのセキュア通信を保証するために、量子力学を用いてランダムな秘密鍵を共有し、それをもとに情報を暗号化・復号するためのものであり、現在、東芝が製品化を行っている。https://www.toshiba.co.jp/qkd/products.htm

Tokyo QKD Network
NICTが2010年から東京圏に構築・運用を続けている量子鍵配送(QKD)ネットワークのテストベッド。NEC、東芝、NTT-NICT、学習院大学などの様々な産学機関で開発されたQKD装置が導入され、装置改良の研究開発、長期運用試験、相互接続やネットワーク運用試験など、QKDネットワーク技術の実用化に向けた研究開発のほか、QKDネットワークを現代セキュリティ技術と融合した新しいセキュリティアプリケーションの研究開発などを進めている。https://www.nict.go.jp/press/2010/10/14-1.html

ワンタイムパッド方式
ワンタイムパッド(OTP)は、一度使用した暗号鍵を何度も使い回さずに、一度使用したら破棄する方式。

高速OTP装置
頻繁な周期的鍵交換をすることなく、ワンタイムパッド(OTP)方式を使用し、高速に動作する安全な暗号装置として開発された試作品。

SW-AES
回線暗号装置(COMCIPHER-Q)がハードウェア上で物理的に鍵交換を行っていた仕組みを、ソフトウェア用に改善し、簡易に鍵交換を行うために開発した試作品。

回線暗号装置(COMCIPHER-Q)
安全保障などの高セキュリティ要求分野で使用されている回線暗号装置(COMCIPHER(AES)シリーズ)に、QKDのための機能を追加したカスタム品(研究試作品)。FPGA(Field Programmable Gate Array)による高速なハードウェア処理を実現した暗号化・復号機能により低遅延・安定した暗号通信を実現。更にソフトウェアで機能追加することによりQKD向け機能の追加を実現。

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神崎 洋治

神崎洋治(こうざきようじ) TRISEC International,Inc.代表 「Pepperの衝撃! パーソナルロボットが変える社会とビジネス」(日経BP社)や「人工知能がよ~くわかる本」(秀和システム)の著者。 デジタルカメラ、ロボット、AI、インターネット、セキュリティなどに詳しいテクニカルライター兼コンサルタント。教員免許所有。PC周辺機器メーカーで商品企画、広告、販促、イベント等の責任者を担当。インターネット黎明期に独立してシリコンバレーに渡米。アスキー特派員として海外のベンチャー企業や新製品、各種イベントを取材。日経パソコンや日経ベストPC、月刊アスキー等で連載を執筆したほか、新聞等にも数多く寄稿。IT関連の著書多数(アマゾンの著者ページ)。

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